終戦後の暗い面影もいつしか消え、年を追うごとに産業も復調していった三十年代後半には、池田内閣の所得倍増政策を受けて本格的な高度経済成長期に入り、テレビ、電気洗濯機、電気掃除機が「三種の神器」として復及し始めるなど日常生活も急速に向上していきました。この10年間で静岡県の人たちの最も感動的な思い出は、オレンジ旋風を巻き起こした昭和32年の静岡国体だったのではないでしょうか。30年代最後の年は、新幹線開通、東京オリンピックなど日本中が注目した明るい話題で締めくくられました。
昭和30年4月左上部にお踟の行列、街路樹は桜並木でした。
昭和30年頃の江川町交差点、角は郵便局。
昭和30年頃、まだ信号機が無く中央に警官の手信号の台がある。車が少なく、信号無しの自転車王国だった。
昭和30年の廿日会祭の小若連(男児)。御幸通りの桜がやっと咲き始めた頃。
男女、子供達のこの年新調した衣装。女性は鳥追笠に着流し姿。女性は現在までに衣装が3回変わった。これは御幸町オリジナルだが、この後連合町内会で揃えることになる。
作曲木村昭三氏、作詞小川龍彦先生という顔ぶれで、御幸町音頭のレコードが出来上がった。楽譜、踊りの振り付けの歌詞カードも作られた。
昭和30年頃の婦人会の面々
昭和31年9月市公会堂町内 敬老会
婦人部の和服姿。いつもとは違った装いで美しく、男衆も目を細めたとか。
昭和32年10月28日、天皇・皇后両陛下御臨席のもと静岡国体が開催。静岡県は天皇杯1位、皇后杯3位とオレンジ旋風を巻き起こした。
昭和34年7月28日、大祭の日の小梳神社
昭和35年町内敬老会
昭和37年8月、御幸通り発展会で東北方面へ2泊3日の地方商業視察旅行に出かける。女性も5人参加し賑やかな旅でした。
昭和30年代後半、この頃は子供の数がまだ多かった。あれ、スイカはどこ?
昭和38年、国道側から駅を望む。静岡駅が始発のチンチン電車は前年に廃止となった。この頃から国道1号線の交通量が増え始め、ロータリーの姿も消えた。
昭和39年10月4日に東京オリンピック開催、聖火ランナーが御幸通りを駆け抜ける。駿府公園では6万人の県民が「聖火を迎える県民の集い」に参加。また沿線では人垣を作って聖火を歓迎した。